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​​日本鹿児島県

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城山のふもとの平之町にある平田公園の横に調所笑左衛門広郷邸跡

照国神社から甲突川方向に10分ほど歩いたところにあります。

下は薩摩偉人トランプのデザインです。

密貿易の小判に特大千両箱の上に鎮座させ、借金の踏み倒しの悪いイメージだけを強調しています。

​しかし、調べてみると真逆の人物像がみえてきます。

 調所 広郷(ずしょ ひろさと、安永5年2月5日(1776年3月24日) - 嘉永元年12月19日(1849年1月13日))は、江戸時代後期の薩摩藩の家老。

島津斉興に仕え、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。当時の呼称は調所笑左衛門が一般的。

当時、薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前。これを広郷は行政改革、農政改革を始め、商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払いにしたり、さらに琉球を通じて清と密貿易を行なった。

また大島・徳之島などから取れる砂糖の専売制を行って大坂の砂糖問屋の関与の排除を行ったり、商品作物の開発などを行うなど財政改革を行い、天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。

しかし代替措置で一部商人資本に対しては交換条件として密貿易品を優先的に扱わせ、踏み倒すどころかむしろ利益を上げさせていた。

斉興の後継を巡る島津斉彬と島津久光による争いがお由羅騒動に発展すると、広郷は斉興・久光派に加わる。これは、重豪に似た蘭癖の斉彬が藩主になることで再び財政が悪化するのを懸念してのことであると言われている。

斉彬は薩摩藩の坊津や琉球などを拠点としたご禁制品の密貿易に関する情報を幕府に流し、斉興、調所らの失脚を図る。

嘉永元年(1848年)調所が江戸に出仕した際、責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺。享年73。

天保山公園の一角にある調所広郷の像。

その先には薩英戦争の時の砲台跡があり、もう少し歩くとニシムタや映画館などの大型ショッピングモールがあります。

​買い物のついでなどに10分ぐらいの散歩で行ってみるのも良いと思います!

天保山とは天保年の頃に甲突川をさらい、その砂を揚げ積み上げらて山のように見えたので名付けられたそうです。

広郷は甲突川の土木工事、西田橋などの五石橋や天保山の造成も行いました。

福昌寺とは廃仏毀釈により無くなった大寺。最盛期には1500人の僧侶がいたそうです。

長崎でのキリスト教徒弾圧事件からの鹿児島に送られて他界した浦上のキリシタンの墓地もあります。

観光ガイドなどには掲載されてなく地元でも知られていないところですが、敷地も広く周りは山にかこまれ歴代当主の墓が大小ありと、外とは空気がガラッとかわります。別世界です。

歴代島津氏当主の墓地がある福昌寺跡の一画にある広郷の墓。

​先ほども上げましたが、もう一度

6代から28代とその一族、大変な数のお墓があります。広大な敷地です。

行ってみないと分かりません。

​心が落ち着くんです!癒されます!すごく不思議です。!!

鹿児島県鹿児島市池之上町48

JR鹿児島駅から車で5分。

​JR鹿児島中央駅前から市営バス22番葛山行きで約20分、玉龍高校前下車で歩きで3分。

​有名観光スポットになって賑やかになるまえがオススメです!

それでは次回は東郷平八郎と桜の名所の多賀山公園です。